創業:1847年
~世紀末のパリを華やかに彩ったカルティエの誘惑~
カルティエの本業は宝石商である。この事実に対して異論を唱える人はいないだろう。しかし、カルティエの時計は素晴らしい。これも厳然たる事実だ。これはペル・エポック時代の寵児が生んだ史上稀に見る物語である。
時代は19世紀末のパリ。来るべき20世紀への期待と不安が交錯する。そんななかで、1847年にフランソワ・ルイ・カルティエが創設したカルティエは、上流階級の寵愛を一身に受け、一流宝飾店としての道を歩んでいた。この物語の主人公、ルイ・カルティエが経営に参画したのは1898年のことであった。彼こそが、カルティエ伝説のいわば骨格を形成した人物である。
どんなものにでも興味を抱き、自らの資質にしてしまう才に長けていたルイ・カルティエは、わけても時計製造に並々ならぬ情熱を寄せていた。彼が経営に参画した翌年の1899年、現在も本店を構えるラ・ぺ通り13番地に移転してから、カルティエの時計製造数は飛躍的に増大することになる。時計史に未来永劫刻まれる出会いはその翌年に起こった。ルイ・カルティエと、ブラジル生まれの熱狂的な飛行機狂として、当時のパリで名を馳せていたサントス・デュモンとの出会いである。
ブラジルのコーヒー王の子息であったサントスは、その財力にものをいわせ、留学先のパリで派手な生活を送っていた。コーヒーは17世紀からヨーロッパに入ったとされており、この19世紀にはパリを中心に、コーヒーハウスが人々の社交の場となるなど、この黒い飲料の需要は日を追うごとに増加の一途をたどっていた。19世紀の偉大な評論家として知られるジュール・ミシュレは、コーヒーについてこんな言葉を遺している。「コーヒーよ、正気をもたらす飲み物よ、酒とは異なり純粋と明晰をもたらすものよ、脳の偉大なる栄養なり」。
気球や飛行機などを製造して大空を舞うことに情熱を傾けていたサントス・デュモン。しかし彼の設計、製造した飛行機は、機能的にはとりたてて見るべきところはなかった。飛行時に彼が着目した、あることが素晴らしかったのである。それは、飛行中にしげしげと取り出さなければならない懐中時計を極めて不便であると感じたことであった。そこで、1899年のとある日にパーティの席上で出会ったルイ・カルティエに、懐中時計に変わる新しい時計の製作を依頼したのである。
その日から5年の歳月を経た1904年、サントスの依頼した時計がついに完成した。それはいっさい飾りのない、シンプルな腕時計であり、当時の女性の間でもてはやされていた華奢なブレスレット・ウォッチとは明らかに一線を画するものであった。この腕時計を身に着けたサントスは1907年、愛用の飛行機で飛行時間の世界記録を樹立したのであった。この記録もさることながら、宝石商であるはずのカルティエが世界に先駆けて、本格約な腕時計の製作に着手したという事実は見逃せない。腕時計の需要が本格化し、各社が主要生産ラインを懐中時計から腕時計に移行させたのは1920年代以降であることを考えると、ルイ・カルティエの見識がいかに優れていたかがわかる。
サントスと並んでカルティエの代名詞と呼ばれるのが、名作「タンク」である。この時計にもまた、サントスと同様多くのドラマが内包されている。
4年間にわたる第1次大戦が終結し人々が活気を取り戻した1920年代、都市が整備され交通機関は飛躍的に発展を遂げた。ウィーン分離派やバウハウス運動を起源とする、アールデコが人々の心を掴んだのもこの時期である。ルイ・カルティエがこの流れを見逃す筈はなく、曲線を省き、シンプルな直線で構成した腕時計タンクを1919年に発表した。優美な形状をもつこの時計、実は先の大戦で本格的に各国軍に導入された、戦車のキャタピラから着想を得てデザインされたのである。戦争の終結を喜ぶ人々が絶賛の嵐を送ったこの時計が、実はその戦争と密接な関わりをもっていたのだ。
ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落に始まる暗黒の1930年代、カルティエは景気後退にさほど影響を受けない王侯貴族に多くの顧客を得ていたため、難を逃れることができた。宝飾防水時計として知られる「パシャ」もこの時代に登場している。これは、マラケシュのパシャが「自宅のプールで泳いでいる時にも身に着けていられる腕時計はないものか」という注文から誕生した宝飾防水時計である。
暗黒の1930年代をさしたる影響もなく切り抜けたカルティエではあったが、それに続く第2次大戦の影響は避けることができなかった。1939年、ドイツに対するイギリス、フランスの宣戦布告の声を聞くと同時に、ロンドン・カルティエではイギリス空軍のために写真機材や備品の製造を始めた。また、ドゴール将軍率いる自由フランス軍のオフィスとして、ボンド・ストリートのカルティエ事務所の2階を提供したのだ。そして1942年、カルティエの象徴として君臨していたルイ・カルティエがこの世を去った。
戦後のカルティエは、腕時計の生産にますます力を入れるようになった。クロノグラフなど複雑な機能を搭載した時計から、華麗な装飾を施した女性用のブレスレット・ウォッチまで、そのバリエーションは多様化を極める。
1960年代。この年代はカルティエにとってひとつの転換期を意味している。100年以上もの長きにわたって続いた血族経営に終止符が打たれたのである。外部から新しい経営陣を迎えることによって、カルティエはまったく新しい展開を始めたのである。
王侯貴族に愛されてきたそのステイタスと、一般消費者の興味へ、従来のイメージを崩すことなく、いかにして幅広い層にカルティエの素晴らしさをアピールすることができるか。新しい経営者たちは暗中模索を繰り返していた。その結果、新しいラインとして「レ・マスト・ドゥ・カルティエ」を1973年に発表し、これが見事に大成功を収めた。
ここ数年は、かつての機械式時計を復活させるなど新たな展開を見せるカルティエ。伝統を守りながらも、常に時代の突端を見つめているその鋭い視線は、ルイ・カルティエの似姿を見ているような錯覚さえ起こさせるのだ。
「世界の腕時計 №16」より引用
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